10周年インタビューの最後を締めくくっていただくのは、オルタナティブ・スクールHILLOCK(ヒロック)初等部学院長、世田谷校スクールディレクターの蓑手さん。公立学校教員をやめてまで立ち上げた学びの場「HILLOCK」。自由進度、探究学習、STEM教育など、様々な新しい学びのスタイルが目を引くことの多い場所ですが、その背景には、 どんな哲学があるのでしょうか。急速に技術が進歩する社会における「学び」の意義や意味を考えます。
オルタナティブ・スクールHILLOCK
初等部学院長、世田谷校スクールディレクター
蓑手 章吾さん
中村:
蓑手さんと最初にお会いしたのは、前原小学校にいた時なので、2016年頃じゃないかと記憶しています。その時から1人1台の端末を活用して様々な実践をされていましたが、公立学校の先生をやめてまで、HILLOCKを立ち上げた理由、改めて話してもらっていいですか?
蓑手 :
公立学校では、かなり自由にやらせてもらってはいましたが、それでもできないことがあったんですよね。例えば、学年を解体したい、通知表をなくしたい、宿題やテストをなくしたいとか。あとは、「この学年でこの範囲はやんなきゃいけない」っていう「ノルマ」。それがない方が、本当の意味で「自由に学ぶ」ことに向き合える。 見せかけじゃなくて、「本当に自由なんだ」っていう環境を作った方が、絶対いい学びができるっていう確証があったんです。
ただ、それって公立校ではできないんですよね。仮に校長になったとしても難しい。だったら「俺がやめればいいんだ」って。俺が公立学校をやめて、そういう学校を作ればいいんだって思ったんですよ。だから、今HILLOCKでやってることって、ずっとやりたかったことなんです。評価も、ノルマも、学年もないっていうのが今の形になった。今はずっと見たかった景色を見てるって感じですね。
中村:
なるほど。「既存の学校ではできないこと」という意味では、まさに「オルタナティブ(代替の、別の可能性の)」ですよね。不登校も増える中で、フリースクールやオルタナティブスクールも増えてきていますが、HILLOCKでの「オルタナティブ」って、どういう意味合いなんでしょう?
蓑手 :
「学力は高い方がいい」とか、 学力じゃなくても、コミュニケーション力とか、非認知能力とか、なんか前提として「能力は高い方がいい」と言われるけど、別に「できても、できなくてもいいよね」とか、「そもそも学ぶって楽しいもんだよね」を目指す感じですね。目指すのが「ウェルビーイング」なんだったら、別にそういう能力感に縛られなくていいんじゃないの?学びってそもそも、もっと自由なものなんじゃない?っていうのが、今のHILLOCKの向かってる方向性かなと思います。
中村:
それで言うと、多くの人が思っている「オルタナティブ」の意味合いとも、またちょっと違いそうですね。
蓑手 :
そうですね。不登校支援の文脈でも、例えば「活動に参加できたらいいよね」とか、「元気になったら学校行ってね」みたいな「期待」があったりしますよね。居場所として、機能的に役割が違う面もありますが、HILLOCKは そうした場とは別だと思ってるんです。
中村:
つまり「オルタナティブ」の要素として、公立学校の経験の中であった「制約」をなくしたいということ、そもそものメリトクラシー(能力主義)に対する否定かなと思ったのですが、後者の方って、なんでそう感じるようになったんですか?
▲公立学校時代に実践していた「自由進度学習」
蓑手 :
元々のきっかけは、やっぱり特別支援学校で勤務していた経験が大きかったですね。(障害があることで)圧倒的不利な立場に置かれてしまうことが多いじゃないですか。別に何か悪いことしたわけでもないし、いわゆる障害っていうものを持って生まれただけで、圧倒的ハンディキャップを負って「しょうがないよね」とか「かわいそうだね」って言われてしまう。そんな状況を見た時に「なんだこの世界は」って思ったところが最初かもしれないです。「そもそもこの世界のルール、ちょっとおかしくない?」という感覚ですね。
中村:
なるほど。でもちょっと意地悪な聞き方になりますが、ここは何かしらの能力を伸ばす場所ですとか、子どもたちにこういうふうになってほしい場所です、みたいな要素を取り除いてしまうと、ただ「過ごす場所」になりませんか?HILLOCKでは、自由進度学習やSTEMの時間もあるじゃないですか。それって、どういう位置づけなんでしょう?
自由進度学習:授業の中での学習の進度を子ども(学習者)自身が決めて、学習内容を進めていく形態のこと。授業内で教科も単元も自分で決めて学ぶものから、同じ単元の中での進度のみを自分で決めるものまで幅がある。
STEM(教育):Science(科学), Technology(技術), Engineering(工学) and Mathematics(数学)に関する教育分野。その中でも、プログラミングなどを通して体験的・実践的に行われるものを言うことが多い。
蓑手 :
そうですね。ただ過ごす場所みたいな感じになると、教育機関じゃなくなると思っています。
もちろん、ただ過ごす場所も大事だと思っていて、フリースクールとか、プレイパークとか、もちろんホームスクーリングも含めて、居場所があることは大事だと思ってるけど、HILLOCKは明確にそれではないんです。
やっぱり何か目的を持っていないと、そもそも教育機関じゃない。その部分では、HILLOCKでは「幸せになる力をつけること」を理念としていて、それぞれの時間は、そのための「練習」という位置づけですかね。
よく子どもから出るのは「楽しいだけだったら、HILLOCKじゃなくていいよね」っていう話。楽しいだけなら、家にいりゃいいし、家族で毎日ディズニーランドに行った方が楽しいかもしれない。でも「幸せになる力」をつけていくと、今も幸せでいられて、将来もっと幸せになれるから、そのために学んでるんだよっていう感じ。けど、そこには学習進度とか、あるべき姿みたいな明確なものがあるわけじゃなくて、「自分なりの幸せ」に近づいているっていう実感を持っていられればいいのかなと思っています。
中村:
そこでの大人の役割は、どういうイメージですか?
蓑手 :
僕ら大人も一緒に学ぶって感じですかね。例えば、ある子が「僕は幸せになる力がついてきたよ」って言ってた時に、大人が「君はこんなふうな幸せな姿を描いてて、確かに近づいてるね」って言えるかどうか。そこに疑問があったら、時間をかけて対話する。
蓑手:
極端な話、「人を傷つける武器を作りたい」って言い始めた時に、「それは本当に君の幸せなのかどうか、わかんないんだ」っていう話は、ちゃんとする。その子が望んだからといって、ずっとYouTubeを見てゴロゴロして、何にも学んでないようだったら、それが幸せな力につながってるかどうか、ちゃんと問い返す。そういうところが、教育的要素ですかね。
中村:
なるほど。本来は学校の先生も「子どもたちに幸せになってほしい」って絶対思ってるはずなんですけど、 それには能力が必要不可欠だと考えてるんじゃないかと思いました。蓑手さんの話を聞いてると、能力を伸ばすっていうのはその手段の1つだし、伸ばす能力は個々によって違っていいんだっていう考えだなと。
蓑手:
そうですね。eboardも含めて、すごく豊かな時代になったと思っていて。 例えばメガネもそうだけど、能力伸ばさなくても補ってくれるだけのツールがより増えたんだから、それを使えば良いんですよ。だから、一律みんなが同じ能力を持ってなきゃいけない世界観は、すでに終わっていて。ある能力を伸ばしたければ伸ばせばいいし、別に伸ばさなくても、テクノロジーの力を借りたり、それが得意なやつと組んで解決するとか、代替手段が取れることが重要だなと思います。
幸せの形って、もっと普通に目指せるようになってるはずなんですよね。だから、俺「自然の中にいる方が好きだな」「生き物と一緒に生きていきたいな」とか、それぞれ自分の幸せを設計しながら学んでいくこととか、失敗してもちゃんとやり直せるとか、そういうことができる時間っていうのが、今の子どもたちにとって1番大事なことだと思うので、 そこを大事にしています。
中村:
その通りですね。「将来役に立つ能力を身につけましょう」とか、「将来幸せになるために、勉強しよう」とか言ってしまいがちですけど、それってどうなんだろうとは思いますね。「自分が何に幸せを感じるのか」がわからないのに「将来の幸せ」なんて目指せないですよね。
小さい頃から自分の肌感覚として、「自分はこれが気持ちいいんだ」とか「これが楽しいんだ」みたいなことがわかってることが大切で、それがわかってないと、 そもそも「何の能力をつけるべきか?」って話せないですよね。
▲HILLOCKのランチタイムは近くの砧公園で。
蓑手:
大人もほんとは気づいてるはずなんだけど、気持ちよさとか楽しさって、人それぞれ違う。人の顔とか考え方が違うぐらい、ほんとは多様なのに、学校教育とか教育の文脈になると、高学歴、高収入とか、高身長とか、この車に乗ってる方が幸せとか、幸福感があまりにも、のぺっとしちゃう。別にそういう人がいてもいいんだけど、それが全員じゃない。 何か作ってるのがすっごい幸せな人もいれば、大して興味ない人もいると思う。それを一律で「みんなこうなることが幸せなんだよ」っていうのは、 新興宗教みたいな感じ。
子どもの頃の感性ってすごい大事で、多様じゃないですか。運動が好きな子もいれば、図鑑見てるのが好きな子もいれば、新しいことを知るのが好きな子もいる。 三つ子の魂100までじゃないけど、やっぱその頃好きなものって、すごく本質的なものだと思うんですよね。
「人と違う」ってことをどれだけ早く知れるかって重要ですよね。「あ、俺あいつと違うわ」とか「俺こういうのが好きな人間なんだ」とか。「周りとちょっと違うかもしんないけど、俺はここにいたら幸せ」って言えるとか。 幸せを奪い合うんじゃなくて、違いを認め合えたら、みんなハッピーになれる道があると思うんですよ。
中村:
今日も自由進度学習の時間を見せてもらいましたけど、自由進度とか個別最適化とか、公立学校から、そういう文脈で「eboard使いたいです」っていうのも増えてきたんです。ありがたい反面、今広く言われている「個別最適化」は、「この能力をつけるべきです。その能力を身につけるプロセスを個別最適化させましょう」なんだなって感じるんですよ。
身につけるべき能力とか幸せの定義がみんな一緒だと思ってるから「私がガイドできる。ガイドしてあげなきゃ」っていう世界観になっちゃってる。だから、 個別最適化とか自由進度と言いつつ、どこかでコントロールしてる感があって。
だけど、本来はその子にとっての幸せとか、目指すべき能力も違いますよね。そもそもこっちがコントロールして、最適化させることなんてできないはず。自分で見つけてもらうしかないわけで。
蓑手:
いや、そうなんですよね。なにが正解かなんて、誰も知らない。歴史上にもないわけじゃないですか。だって、Aくんは、人類46億年の歴史上、初のAくん。なんのサンプルもデータもない。インターネットで検索しても出てこないし、ChatGPTだってわかんないわけですよ。そしたら、ひたすら実験して「あ、俺これやって楽しいわ」とか「これは嫌いかも」とか、 これ好き、これ苦手ってひたすら目の前のことをやってれば、自ずとそこから見えてくる。
正直、一般的に言われる「個別最適」的な価値観と、相容れないところもあるんですよね。目指しているものが違うし、学習の捉え方も違うから、学校の先生とよく話が平行線になっちゃうことも。「なんで自由進度でやりたいのか」がそもそも違ったりする。「効率よく点数伸びるんですよね」とか言われたり。結果として、そうなることもあるけど、別になんかそれは期待しているところではないので。
中村:
「効率がいい」ことが、良いことだと思ってますよね。それによって、いろんなものを奪ってしまっている。明確に目指すべき目標があって、それを本人が身につけたくて、かつ時間が限られてたりするんだったら、それは効率いい方がいいけど、今はそれで犠牲にしてるものが、ちょっと多すぎますね。
蓑手:
ホントそうですね。幸福感や自己有用感もそうだし、何より「学びを嫌いになる」っていう意味ですごい成果上げてるじゃないですか、日本って(笑)。ちゃんとみんな「学びを嫌いになる」学習ができてるっていう。あれは完全に教育の責任だと思わないとダメだと思う。
これからは、学びを嫌いになったらもう、ある意味ゲームオーバーですよ。1,2年学習の進度が遅れようが、そこは死守しなきゃいけないと思う。
中村:
なるほど、今の話はめっちゃ納得感がありました。(HILLOCKと)公立学校での実践の違うところは何かって、学年混じってるとか、課題の設定が自由とか、表面的にはそういうこともあるけど、そういうことじゃないですね。 根底が違う。じゃないと、HILLOCKの活動とか授業、スタイルに納得感は持てないですね。
蓑手:
そう。細かいところを説明するとキリがないし、複雑に見られるんだけど、やってることはシンプル。だからHILLOCKでは、大人も子どもも思ったようにやってもらってます。僕らが目指してんのは、「幸せになる力をつける」ってことだから、それに必要だと思ったらやったらいいし、必要じゃないと思ったらやめた方がいいって言ってる。
中村:
改めて、そういう考え方に立った時に、HILLOCKでの自由進度学習の位置づけって、どういう感じなんですか?
蓑手:
トレーニングの時間に近いかな。自分の欲しい能力を手に入れる時間。その他の授業は、全部探究的なんですよ。探究する中で「なんか数字って便利だね」とか、「使えるとすげえ役に立つじゃん」とか、「漢字使えるとすごくいい」みたいな。ぜんぶ、幸せになる力につながる力。
一方で「言葉知ってるといいよね、便利だよね」ってなってきた時に「じゃあそれって、どうやって身につけられるの?」ってなる。ただ、それを探究の中で身につけるのは結構大変。なので、自由進度の時間に身につけ方を学んでみるとか、試しにやってみるぐらいの時間ですね。
でも、自分で学ぶ力さえつけば、自分で課題設定して、ツール自体だってもうすでにあるし、eboardもあるし、家でもできるわけだから。 あとそこにふりかえる、リフレクションの力がつけば、もはやHILLOCKでやってる必要もないんですよ。
▲ 自由進度学習の時間には、子どもたちがそれぞれ「めあて」と「ふりかえり」を書く。
中村:
完成系は、家庭学習で勝手にやる感じですよね。
蓑手:
そうそうそう。「弁護士になりたいから、六法全書やってます」っていうのが普通にいていいはずなんです。だからこう、最初の足場かけの場として、そこまでの伴走をしているっていう。
人によって合う勉強方法というか、やり方がちょっと違うじゃないですか。音から入った方がいい子がいれば、目からの方がいい子がいれば、たくさん書いた方がいい子もいるし。 それもわかんないから、一緒にやっていって「あ、自分のタイプこうだね」っていうのは、探ってます。それって一生の財産になりますから。
中村:
今日見させてもらってたら、 eboardを使ってくれてる子も結構いたんですけど、eboardを選んでくれている理由って何だと思いますか?
蓑手:
まず、映像授業があるというのは大きいかなと思います。小学生だとテキストとか問題だけでは、意図をくめない子って多いんですね。やっぱり誰かから聞かないとわかんない子にとっては、誰かがしゃべってくれる、目と耳でわかるっていうのが必要。特に、新しい概念を学習する時には、文字で書かれるより、 やっぱり語りかけてくれるのはいいですよね。
もちろん、先生がマンツーマンでついて教えられたらいいですが、現実的にはほぼ不可能なので。授業にあたる部分を、それぞれが動画で自分のペースで見られるっていうのは、すごく価値がありますね。eboardのような映像授業がない中での自由進度は、できなくはないけど、むずかしいだろうなと思います。
あとやっぱり動画の良さって、当たり前ですけど、何回でも同じところを見られるんですよね。評価されないし、止まってくれる。「ちょっと待って、もう1回教えて」みたいなことが、 自分でできるっていうところ。人だと気を遣いますよね。逆に、それは人だと出せない価値が出せるので、やっぱその辺もいいですね。
中村:
普通すぎて皆さん気づきづらいんですけど、eboardが誇るeboardの最大の特徴は、その自由度なんですよね。どの教科をどこから始めてもいい。動画だけ見てもいい。問題だけ解いてもいい。間違えてもいい。怒られない(笑)。そういう意味で、今日はeboard使う子、使わない子もいて、うまく使ってもらってるなと思いました。
蓑手:
YouTubeとか見たら、それこそスケボーの乗り方だとか、速いボールの投げ方とか出てくるじゃないですか。世の中の全部基本的には自由進度で、自分に合った方法で、ほぼなんでも学べるんですよね。
このあいだ、子どもたちに、乗り換え案内の使い方を教えたんですよ。低学年だと使ったことない子が、ほとんどじゃないですか。なのでこの間、乗り換え案内を使って、1人で電車で渋谷まで行って帰ってくるみたいなことをしたら「これ使ったらどこでも行けんじゃん」「ポケモンセンターも1人で行けんじゃん」みたいな感想があって。パソコン、インターネットを使う権利って、別に大人も子どもも平等なんですよね。これさえ使えるようになったら、日本中どこでも行けるんだっていう。「親が連れてってくれない(行けない)」からとか、その辺から解放させてあげたい。
中村:
大人がやってることって「ちょろいな」とか「この程度か」って知るのって、大事ですよね。
蓑手:
そう、別に僕らはなんか勉強したことを使って渋谷に行く方法を考えてるわけじゃないんですよ。でも、そこに学びもあって、時間計算しておかないといけないとか、漢字読めるとより豊かになるとか。基礎学力は、そこに付随しているはずなので。テクノロジーを使うことはすごいショートカットにもなるし、でもそれをより豊かに使いたいのであれば、トレーニングしとくと、より楽しく使えるよね。より自由になれるよねっていう感覚ですね。
中村:
それでは最後に、10周年を迎えたeboardに応援メッセージをもらえると嬉しいです。
蓑手:
私、めっちゃいろんなとこでeboard勧めてるんですよね。学校や塾、家庭関係なく、本当にどこでも使えるっていうところがすごい。端末も選ばないし。教科書もそうだけど、こうやろうって思った時に、ぱっと開けて、使い方がわかってるってことは、すごい重要だと思うんですよね。
いつでも気兼ねなくアクセスできるからこそ、使い方や頻度も自由だし、使い方さえわかってれば、多くの子にとって、めちゃくちゃいい「学び」の入り口になると思ってます。対人ではなくても、本当の意味で「1人で学ぶ」ことができる。「やさしい字幕」のような取り組みも含めて、eboardは、ちゃんとサポーティブに、アシスティブにやってくれるツールなのでより多くの人の助けになってほしいなと思います。
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